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東京地方裁判所 平成3年(行ウ)139号 判決 1992年1月28日

原告

坂本勉

被告

労働大臣近藤鉄雄

右指定代理人

山田好一

井上邦夫

川戸芳夫

若生正之

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告の平成二年一〇月八日付け審査請求に対し平成三年四月一日付けでした右審査請求を却下する旨の裁決を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、天王寺労働基準監督署長に対し、昭和六三年一〇月一二日付けで、業務上疾病にかかったとして療養補償給付(同年五月二〇日から同年九月三〇日までの診療実日数六日間に係る療養の費用の支給)の請求をしたが、同署長は、昭和六四年一月六日付けで、右請求に対し不支給の決定(以下「本件不支給決定」という。)をしたので、原告は、これを不服として大阪労働者災害補償保険審査官に対し、同月(平成元年一月)一二日付けで審査請求(以下「本件審査請求」という。)をした。

2  しかし、本件審査請求があった日から三か月を経過してもこれに対する決定がないことから、原告は、行政事件訴訟法八条二項一号に該当するものと考え、平成元年一一月二四日大阪地方裁判所に本件不支給決定の取消しを求める訴えを提起した。そして、原告は、司法と行政とによる二重の審査を避けるために同年一二月五日「審査請求日より三ヶ月以上経過し、前置主義に拘束されなくなったので行政訴訟に移行するため」と記載した審査請求取下書を提出して本件審査請求を取り下げた。しかし、本件取下げは、同法にいう審査請求が労働者災害補償保険法にいう再審査請求に当たらないと誤信したことによるものであり、そのことは、右のとおり本件取下げにあたり表示されていたから、右錯誤は要素の錯誤に当たる。よって、右取下げは無効である。

そうすると、本件審査請求は、同審査官になお係属しているものというべきであるから、原告は、同審査官に審査の再開を要請したが、同審査官は、応じない旨回答した。

3  そこで、原告は、被告に対し、平成二年一〇月八日付けで、行政不服審査法七条に基づき、同審査官の本件審査請求に対する決定に係る不作為について審査請求をしたところ、被告は、本件審査請求は有効であり、同審査官に不作為はないとして、右審査請求を却下する旨の裁決(以下「本件裁決」という。)をした。

4  しかし、右のとおり、本件取下げは無効であるから、本件裁決は違法である。

よって、原告は、本件裁決の取消しを求める。

二  請求原因に対する被告の認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2のうち、本件取下げが無効であるとの主張は争い、その余の事実は認める。

3  同3の事実は認める。

4  同4の主張は争う。

三  被告の主張

1  行政不服審査法や労働保険審査官及び労働保険審査会法には、不服申立ての取下げに民法の意思表示に関する規定が適用されるかどうかについて規定がない。しかし、不服申立てが争訟の裁断を求める私人の公法行為であり、そのような行為については、その明確性と争訟裁断手続の安定性とを期する必要があるから、その効力は、表示されたところにしたがって生ずるものと解するのが相当である。

2(一)  本件取下げの際の状況は次のとおりである。

(1) 原告は、平成元年一二月一日大阪労働基準局に来庁し、本件審査請求を担当していた小川博巳大阪労働者災害補償保険審査官(以下「小川審査官」という。)に対し、本件審査請求を取り下げたい旨の申出をし、小川審査官の交付した用紙に必要事項を記載して審査請求取下書を作成し提出した。そこで、小川審査官は、同局労災管理課奥田勝儀地方労災補償訟務官(以下「奥田訟務官」という。)の同席を求めるとともに、原告に対し「審査請求取下書を提出することは原告の自由であるが、もう少し時間をかけて熟慮してみてはどうか」と指導したところ、原告はこれを了承したので、小川審査官は右の審査請求取下書を返戻した。

(2) 原告は、同月五日再度同局に来庁し、審査請求取下書を再び提出したので、小川審査官は、右(1)と同様に、奥田訟務官の同席を求めた上、「原告が審査請求を取り下げると、労働者災害補償保険法三七条の不服申立前置の規定に反し、行政事件訴訟を維持することはできないのではないか」、「本件については行政事件訴訟法八条二項一号に当たらないのではないか」などと説明した。にもかかわらず、原告は、「小川審査官と奥田訟務官の説明は誤っており、裁判で主張できる自信があるので本件審査請求は取り下げる」旨述べたので、小川審査官は右の審査請求取下書を受理した。

(二)  仮に本件取下げに対し民法の錯誤に関する規定が適用ないし類推適用されるとしても、右(一)の事実に照らし、原告には本件取下げをしたことについて重大な過失があったというべきであるから、本件取下げを無効ということはできない。

3  そうすると、いずれにしても本件取下げは有効であるから、本件審査請求は終了している。したがって、大阪労働者災害補償保険審査官に本件審査請求に対する決定に係る不作為はないとした本件裁決は適法である。

四  被告の主張に対する原告の認否

被告の主張はいずれも争う。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録に記載のとおりであるから、これを引用する(略)。

理由

一  請求原因1の事実、同2のうち本件取下げが無効であるとの主張を除くその余の事実及び同3の事実は当事者間に争いがない。

二  本件取下げの効力について

1  右一の争いのない各事実に、(証拠・人証略)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  原告は、平成元年一二月一日大阪労働基準局に出頭し、本件審査請求を担当していた小川審査官に対し、本件審査請求をした日から三か月を経過しても決定がされないため行政事件訴訟を提起して本件不支給決定を争うこととするから、本件審査請求を取り下げたいと申し出た。小川審査官は、審査請求の取下げは書面によってしなければならない旨指導し、原告の質問に応じて審査請求取下書の用紙(<証拠略>、同局において労働保険審査官及び労働保険審査会法施行令一五条の二の要件を満たした書式を予め印刷したもの)を手渡したところ、原告は、その場でこれに必要事項を記載し、署名押印して審査請求取下書を作成し、小川審査官に提出した(<証拠略>はその控え)。右審査請求取下書の理由欄には「審査請求日より三ヶ月以上経過し、前置主義に拘束されなくなったので行政訴訟に移行するため」と記載されていたため、小川審査官は、奥田訟務官の同席を得た上、ともども、本件審査請求の取下げについてはもう少し熟慮してはどうかと勧めたところ、原告は不承不承これに従ったので、小川審査官は右審査請求取下書を原告に返戻した。

(二)  原告は、同月五日同局に出頭し、小川審査官に対し、再度右審査請求取下書を提出し、これを受理するよう求めた。同審査官及び同席した奥田訟務官は、<1>審査請求を取り下げることは、審査請求をしなかったことと同じようなものである。<2>本件審査請求を取り下げると、労働者災害補償保険法三七条の不服申立前置の規定に違反し、行政事件訴訟を提起することはできないのではないか。<3>本件については行政事件訴訟法八条二項一号に当たらないのではないか、と説明したところ、原告は、右説明は誤っている、裁判で主張できる自信があるからどうしても取り下げる旨述べて、あくまで本件取下げをする意向を示した。そのため、小川審査官は右審査請求取下書を受理した。

以上の事実が認められる。(証拠略)の原告の供述記載中には右認定に反する部分があるかのようであるが、右記載によっても原告は事前に何度か小川審査官と話して説明を受けていること、本件取下げの際にも原告の理解を得られる程の説明ではなかったが小川審査官や奥田訟務官が傍観者的な立場からその意見を述べていたことは認めているのであって、このことと、(証拠略)の各供述記載の内容とを総合すれば、右部分は結局措信し難い。

2  ところで、労働者災害補償保険法による保険給付に関する決定に不服のある者は、労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をし、その決定に不服のある者は、労働保険審査会に対して再審査請求をすることができるものとされ(同法三五条一項)、保険給付に関する決定の取消しの訴えは、それについての再審査請求に対する労働保険審査会の裁決を経た後でなければ提起することができないものとされている(同法三七条)。したがって、同法による保険給付に関する決定の取消しを求める訴えについては、行政事件訴訟法八条二項一号にいう「審査請求」は、右再審査請求を意味し、再審査請求があった日から三か月を経過しても労働保険審査会の裁決がないときに初めて、これを経ないで右の訴えを提起することができるものと解される。

そして、前記の認定事実によれば、原告は、本件審査請求の審査庁である小川審査官らから、労働者災害補償保険法三七条により、本件審査請求を取り下げると行政事件訴訟を提起することはできないこととなり、本件審査請求があった日から三か月を経過しても行政事件訴訟法八条二項一号によって行政事件訴訟を提起することのできる場合には当たらないのではないかとの、法律上正当な指摘を受け、熟慮を促されたにもかかわらず、自己の誤った理解に固執して敢えて本件取下げをしたものであることが認められる。以上の事実関係の下にあっては、たとえ原告には、本件取下げをするについて、動機錯誤があり、かつ、そのことを審査庁に表示していたとしても、専門家である小川審査官らの指摘を素直に受け入れて関係法令を確認するなどのことをせず、敢えて本件取下げに及んだものであって、原告には右錯誤について重大な過失があったと評価せざるを得ない。

3  そうすると、労働者災害補償保険法による保険給付に関する決定に対する審査請求の取下げについては民法の錯誤に関する規定が類推適用されるべきものであって、原告には本件取下げについて要素の錯誤があったとしても、原告にはこれにつき重大な過失があったものというべきであるから、本件取下げを無効とすることはできず、結局本件審査請求は本件取下げによって終了し、大阪労働者災害補償保険審査官に本件審査請求に対する決定に係る不作為は存在しないこととなる。したがって、その不作為についての審査請求を却下した本件裁決は適法である。

三  結語

以上によれば、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中込秀樹 裁判官 石原直樹 裁判官 長屋文裕)

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